2019-03-19 第198回国会 参議院 政府開発援助等に関する特別委員会 第4号
また、中国に対する最初の無償資金協力として建設した中日友好病院は、二〇〇三年のSARS発生時に重症患者の受入れ指定病院に指定されるなど、中国の感染症対策の重要な拠点となっております。 このように、御指摘の感染症対策の分野においても対中ODAは着実に成果を上げてきたものと評価しております。
また、中国に対する最初の無償資金協力として建設した中日友好病院は、二〇〇三年のSARS発生時に重症患者の受入れ指定病院に指定されるなど、中国の感染症対策の重要な拠点となっております。 このように、御指摘の感染症対策の分野においても対中ODAは着実に成果を上げてきたものと評価しております。
昨年九月、私は公明党として訪中した際に、中日友好協会会長の唐家セン氏とお会いしました。 その際、唐会長は次のように発言されました。日中は、災害について協力できることがいっぱいあります、特に日本は経験、技術が進んでいるので、学ばなければならないことがたくさんあります、是非この分野は協力していきましょうと。
無償資金協力の総額約千五百七十六億円の主要案件については、中日友好病院建設計画、日中友好環境保全センター設立計画等がございます。 技術協力の約千八百四十五億円の主要案件については、法整備、感染症対策、大気汚染対策、高齢化対策、災害対策を中心とする技術協力プロジェクトがございます。 以上です。
一方、李徳全さんが代表となったこの団の構成は、副団長に、後に非常に有名になりました廖承志さん、そして通訳には、後にやはり駐日大使となる楊振亜さんと、長い間、その後、日中関係に貢献をされてこられた、中日友好協会の副会長でもあった王効賢さんがついてこられました。
通告をしておりますけれども、本当にこの日中問題は、公明党も半世紀も前からやっておりましたし、御存じかどうかわかりませんけれども、日中共同声明の下地となる復交五原則というのがありまして、そういうものも公明党と当時の周恩来との間で、中日友好協会ですけれども、いろいろ話し合ってきたような経緯もあります。
その上で、三十年間に及ぶ対中円借款を通じた経験やネットワークの蓄積、中日友好病院を始めとする日本の協力拠点、既存の技術協力の活用などが模索されています。 対中ODAの在り方については我が国の国内でも様々な見解が存在しますが、今回の派遣において、対中ODAが中国の経済社会建設に多大な貢献をしてきたことに加え、両国の友好関係や交流を促進する役割を果たしてきたとの認識が中国側より示されています。
その後、一九七八年に名古屋市が再度中国に訪中団を派遣した際に、中国側、これは中日友好協会秘書長と聞いておりますけれども、から南京市を名古屋市の友好都市にしたいとの提案が訪中団に伝えられました。これを受けて、名古屋市は南京市と友好都市提携を結んだものと承知をしております。
お隣の中国へ昨年秋、中日友好協会の招きで行きまして、幾つかの大きな都市の市長、副市長と意見交換をいたしましたけれども、みんな悩んでおられますのは農業、農村、農民問題という三農問題、とりわけその中での医療保険始めとする社会的インフラというのが、これが築けていないということについて中国の地方政府の指導者というのはみんな頭を抱えておられます。
だから、向こうで民間交流だといって、例えば中日友好協会とか何かいうのがあって、それは民の団体だといって来ても、それはもう元の国務大臣だった人だとか、いろんな、要するに政府から天下りした人たちばっかりでもう全然民ではないわけですね、純粋な意味で。そういうものが今変わり始めてきていますね。
日本と中国との国交が正常化されて約三十年、正確に言うと三十三年目を迎えているわけですけれども、この間、前半は、いわゆる中日友好、日中友好という流れが続きました。しかし後半は、特にこの十五年ぐらい、いわゆる反日という感じの動きが強まってきているわけです。
その当時はずっと、当時常務委員会が中心でありまして、常務委員会は議長を招待する窓口でありますから、日中友好小組という、中日友好小組という、符浩さんが当時委員長をしておりまして、そこが必ず窓口で実はやったわけであります。
実は、去年八月、中日友好協会の招きで一人で北京に行った折、当時外務副大臣だった王毅さんとかと三十分余り会談、会談というと大げさですね、お目に掛かって六者協議の見通しなどを伺う機会があったんですが、その折、遺棄爆弾の処理について先方から指摘がありました。実務者同士の日中協議で調査研究、実験を繰り返した結果、燃焼爆破方式で実施することで合意し、四月に政府間で文書を交わしたと。
元々、中日友好協力同盟とありますから、軍事同盟を結んでいるところですから、それは当然軍事的な交流があってもおかしくない。それから、南北の朝鮮の要するに軍事交流もかなり再開しつつあるというような報道もあります。 そういう中で、今まで、過去日本がやったこの米の援助なんかも軍の備蓄になっていたとかいう情報もかなりありました。
ただし、一方では今、中日友好という問題もありますし、やはりこの大局的な……(発言する者あり)間違えました。これは中国年、日中年の、これ問題あるので、私がその担当なので、つい間違えました。これは日本からすれば日中年です。それは訂正させていただきます。 日中間のこの問題につきましては、国交三十周年と、そういう意味で申し上げました。
この間、私は中国へODAの問題で視察に参りましたが、日本の全額援助ででき上がっている中日友好病院でさえ一対一、シンガポールも一対一。日本が援助してきたそういう病院すら日本の医療水準を、看護婦の水準を追い抜いている。こういうような現状を今さら患者三に対して一。二対一だって私は納得できないと思うんです、看護婦さんも皆納得しないと思うんですが。
、こう書いてありまして、字面から見ると、中日友好のために放棄したんだ、だから友好が実現されないようだったら賠償は放棄する用意はなかったのだということに理屈としてはなるわけです。
去年の秋でございますが、日中民間人会議というのが東京で開かれまして、日本側は後藤田正晴先生が代表になりまして、中国側は宋健さんという新しく中日友好協会の会長になられた方が代表委員になられまして、そして、去年の秋の状況でございましたけれども、ガイドラインの問題が議論になりました。
中国衛生部あるいは中日友好病院の関係者が見えましたとき、私のところはよく訪ねていただくことがございました、その当時。そして、六十三年、すなわち八八年の夏だったと思いますけれども、中国衛生部の招請に応じて訪問をいたしましたときに、大変優秀な、うまい通訳をしてもらうと思いました。
確かに、衛生部長あるいは中日友好病院長等が訪ねてこられるときに、通訳として一緒に来られたとき、私は食事をごちそうしたという意味、そしてそのお礼状をもらって、また返事を書いたという意味では個人的な交際があると私は正直に申し上げております。
私は、厚生大臣として、北京の中日友好病院の計画を合意するまでに大きくかかわりを持ちました。そして、その時点から、東洋医学と言ってはいけません、中国の場合伝統医学であります、伝統医学と日本の西洋医学を組み合わせることによって新たなものが生まれるのではないか、関係者が皆その希望をかけておりました。